メタ研通信 第3号 2022.07発行

主任研究員からのひとこと

諏訪 政市 主任研究員 2014年7月着任(元株式会社フジクラ)

 ビジネスマン人生を長くやっていると色々なことがある。たまたま、メーカーに就職したが、これが良かった。入社当時は、まだ余裕があったのか現場研修が半年間あり、配属は10月1日だった。主力工場を回り現場の人達に手ほどきを受け「ものづくり」の面白さを体験した。霞が関ビルにあった本社経理部資金課に配属になり、代理店の与信管理や、売りっぱなしで、だらしない営業マンの尻を叩く代金回収が主な仕事であった。

 鈴鹿工場経理課勤務中に「ナイジェリア事務所の経理マン募集」という社内公募に応募し、ラゴスに赴任することが決まり本社に異動になったが、ナイジェリアの政策転換により通信インフラ整備事業が中断されたことで転勤はなくなった。ぶらぶらしている内に、会社が業績不振から立ち直るべくスタッフ部門からラインへ何十人も送り込まれることになり、その一人となった。

 民需営業の花形であった部署に異動したが、歓迎会の席で課長と大喧嘩をして「明日から出勤に能わず」と言われた。挨拶で「営業マンはだらしがない」と言及し、営業一筋、飛ぶ鳥を落とす大課長の逆鱗を買ったのだ。電線工業会出荷統計の「間接輸出」で常に断トツの業界シェアNo.1であった営業課であり、得意先である大手エンジニアリングメーカーの購買担当役員に「おたくはどんな営業をやっているのか。電線要求部署が挙っておたくを指定してくる。」と嫌味を言われるほど勢いがあった。当時、営業マンには酒の他にゴルフ、麻雀、生オケの嗜みが求められた。勿論これら接待漬けで受注を伸ばした訳ではない。肝心なのは得意先の技術部門(電気部、計装部、情報通信部等)のエンジニアからの信頼を得ることである。

 「電線ならフジクラさん」が浸透していたため沢山の引き合いや設計協力の要請があった。営業は社内では得意先の代弁者であり、事業部に得意先の要請を実現させることが基本であった。その間に妥協はなく、営業と事業部が「同じ穴のムジナ」になることはなかった。その代わり営業は事業部の失敗の矢面に立った。事業部の中に営業があるような組織では、お互いに傷を舐め合うようなことが起き易い。両者が結託して得意先に嘘をつくことで不具合を隠そうとするならば、それは得意先が一番忌み嫌う行為である。

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